絶好のチャンスを逃したのではない話
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−サクシニルコリンの研究と筋弛緩作用の見逃し− サクシニルコリンには,「アセチルコリンとの類似から自律神経系への作用が研究されたのに,実験動物にクラーレを投与してあったので筋弛緩作用を見落した」という有名な挿話があって,私も本に書いたり人に話しましたが,原論文にあたったことがありませんでした.今回,はじめて読んでみました.
読んでみて驚きました.これがサクシニルコリンの論文でなかったのは当然として,アセチルコリンの血圧降下作用を史上はじめて詳細に検討した論文なのです.東京大学医学図書館の雑誌はこの部分がよく読まれた形跡がありますが,この領域の研究者にとっては重要な古典のはずですから当然です.ページ数は少ないけれど,小さな字でぎっしりなのでかなりの長文です.化学構造以外,図は何も載っていません.
1906年の時点で,アドレナリンは発見されていますが,ノルアドレナリンはまだです.神経伝達が物質によるという考え方はすでに提案されていますが,伝達物質としてのアセチルコリンの役割は知られていません.
コリンのこと 論文はこう始まります.「コリンは,身体のいろいろな部位で検出される.たとえばCSFや副腎にある.また,副腎抽出物に血圧を下げる作用があり,副腎抽出物にはコリンがある.しかし,副腎抽出物はコリンそのものよりも作用がつよい.コリンの血圧低下はアトロピンで防げるが,副腎抽出物の血圧低下はアトロピンで防げない」.それからいろいろな現象を記述して,「結局,副腎抽出物にはコリンの前駆物質かコリン複合体が存在すると考えられる」と述べています.
さらに,“身体の中でコリンの前駆物質かコリン複合体の毒物ができている.この物質は特定の病態・病気では重要な役割を果たしている可能性が否定できない”と考察しています.ここまでが序論です.
主題はコリン誘導体の研究:アセチルコリン! コリンの誘導体は,物質としてもあまり知られておらず,ましてその生理作用の研究はほとんどありませんでした.検討した物質はコリンのアルコールに酸をつけたエステル19種類で,既知物質はアセチルコリンとベンゾイルコリンの二つだけで,あとは新しい物質だそうです.つまりサクシニルコリンも,この研究のために合成された新しい物質なのです.
論文は,アセチルコリンの作用の詳しい記述に入ります.そうして,“循環系への影響に関する限り,これほど作用の強い物質はない”と述べています.1億倍希釈液で作用があり,これはコリンの10万倍の力価で,アドレナリンと比較しても1000倍程度強いと述べています.
なお研究方法として,かならずしっかり麻酔して,さらにクラーレを使用した動物(ウサギとネコ)で行なったと,記述しています.
サクシニルコリン アセチルコリンの記述が約1ページ続いた後に,他の直鎖脂肪酸のエステルの検討が簡単に記載されています.プロピオン酸(炭素3つ),酪酸(炭素4つ),ヴァレリル酸(炭素5つ)で,鎖が長くなると力価は低くなり,血圧が上がる作用が出てくると述べています.
サクシニルコリンの部分はたった3行なので訳出します.「鎖状で二価の脂肪酸のエステルでは,サクシニルコリンだけを検討した.作用はヴァレリル酸エステルと同様である」と,これだけです.サクシニルコリンを最後として,あとは芳香属系の酸のエステルの作用の記載に移っていきます.“サクシニルコリン”という単語がはっきり書いてあり,“コハク酸のコリンエステル”とはなっていません.
解釈のあやまり 私の理解は二重にあやまっていました.一つは,「サクシニルコリンはアセチルコリンと似ているので研究された」のではなくて,アセチルコリンとサクシニルコリンは,コリン誘導体としての同格の研究対象なのです.もう一つは論文の意義です.失敗の論文ではなくて大発見の論文なのです.サクシニルコリンの筋弛緩作用はたしかにみおとしましたが,アセチルコリンの血圧低下作用という生理的意義のはるかに大きな作用,その強大な力価を発見したのです.そう思ってみれば,「大変な微量で効く」ということを繰り返して強調している文章は,大発見をした研究者のよろこびが蔭におどっているようでもあります.アセチルコリンという物質に惹かれてしまって,サクシニルコリンなどどうでもよくなってあたりまえでしょう.
言葉と国のこと コリンは現在では choline と綴りますが,この論文ではタイトルを含めて,一貫して cholin となっていて最後の“e”が落ちています.当時の化学はドイツが圧倒的に強かったからか,とは私の勝手な推測です.また,心停止を“Stoppage of the heart ”と述べているのも面白い表現です.
論文の出所をみて驚きました.アメリカの研究です.そういえば,高峰氏がアドレナリンを発見したのもアメリカです.当時のアメリカの基礎研究レベルがすでに非常に高かったことを伺わせます.その基礎研究は,イギリスの雑誌に発表する傾向が強かったのかもしれません.
筋弛緩作用の論文 筋弛緩作用を記載する論文は,ずっと下って1949年に二つ出ます.そのうちでボヴェの論文はイタリアの雑誌で,入手できませんでした.それとは独立にほぼ同時に発表された論文があり,こちらはアメリカ化学会雑誌に載っています.わずか半ページの編集者への手紙スタイルの論文です.すでに,デカメソニウムの作用が知られていて,それからの類推で作って調べたようです.「力価はクラーレと同じ位だが,作用時間が短い.コリンエステラ−ゼで分解される」となっています.
文献:Hunt R, Taveau RM. On the physical action of certain cholin derivatives and new methods of detecting cholin. Brit Med J 2:1788-1791. 1906. Phillips AP. Synthetic curare substitutes from aliphatic dicarboxylic acid amino-ethyl esters. J Amer Chem Soc 71:3264.1949.
注:この文章は, Anesthesia Antenna 第11号(1994年10月発行)に掲載したものに,ほんの僅かに手を入れて再掲載しました.
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諏訪邦夫
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