量の間違いから生れた大量モルフィン麻酔:“Give ten!”
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1960年頃まで,モルフィン(モルヒネ)は麻酔に使用されることはごく稀でした.「前投薬」といって,手術の前に軽く眠気を誘う目的では使用したのですが,麻酔薬としては作用が弱くて使えない,と考えられていたのです.
1960年代半ばに,心臓に人工弁をうえる手術が始りました.
この手術を受ける患者は重症の「心臓弁膜症」で,それも心臓の筋肉の弱った「心不全」状態にあることが少なくありません.この心不全状態の患者は,当時の麻酔法ではどうしてもうまく麻酔が行なえず,いろいろと新しい麻酔法が模索されました.「心不全」状態の患者にふつうの麻酔薬を使うと,心臓や血管への副作用が強く,血圧が下がったり,心臓が具合わるくなってしまうのです.そこで麻酔薬はほとんど使用せず,後に述べる筋弛緩薬(筋肉を動かなくする薬:痛みをとり意識を失わせる作用はない)を主に使用して麻酔したこともあります.
当時モルフィンは10mgが標準的な使用量でした.モルフィンは呼吸を抑える作用があり,これ以上使用すると呼吸しなくなってしまう危険があるのです.ところがハーバード大学のレーバー先生という人が,こうした既存のドグマに挑戦しました.「呼吸は酸素を与えて人工呼吸をすればよいではないか.モルフィンは心臓にはいい影響があるようだ,量を増やしてみよう」というのです.私は当時同じ教室で働いていましたが,レーバー先生が「今日はモルフィンを30mgまで増やしてみた.なかなかいいぞ」と述べていたのを記憶しています.
私が日本に戻ってから間もなくのことだそうです.ある日,共同研究者のローエンスティン先生が心臓手術の麻酔をはじめていて,一緒に麻酔を担当していた研修医に“ Give ten (10入れろ)”と言いました.モルフィンを10mg注射しろ,という意味です.ところがこの研修医は10mgでなく10ml注射してしまいました.モルフィンは日本でもアメリカでも,1mlが10mgなので,10mlは100mgです.つまり予定の10倍を注射してしまったのです.
意外にも患者は何ともありませんでした.それどころか,かなり良好な麻酔状態になったのです.当時レーバーとローエンスティンの二人は,動物を使ってモルフィンの研究を続けていたのですが,この事件に勇気百倍して,ついにモルフィンを100mgから200mgも使用する麻酔法を完成したのです.現在も使用される麻薬系鎮痛薬を用いる麻酔法の創始です.
レーバー先生は私の恩師の一人でもありますが,数年前に50歳代で亡くなりました.とても残念なことです.ローエンスティン先生はハーバード大学教授で現在も元気に心臓麻酔を担当されています.私は直接には教えを受けていませんが,虎の門病院の吉川秀康(よしかわひでやす)先生をはじめ研究の指導を受けた方が日本にも多数います.
註:この文章は,自著“麻酔の科学 講談社(ブルーバックス),東京.1989.”の一節です.一般向けのものです.
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諏訪邦夫
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