麻酔のメカニズムと学説の歴史
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1994年初頭,雑誌ネイチァに麻酔のメカニズムの解説があらわれた.それを機に現況をさぐってみた.中枢神経もイオンチャンネルも知らない私には荷が重いのだが.
Meyer-Overton の脂質説:今世紀のはじめ 原文が英訳されて入手可能らしいが,読んでいない. 孫引きでは,「吸入麻酔薬は脂質溶解性が大切」ということだという. MillerとPauling の水和物説:1960年ころ
なにしろPaulingという大スターが雑誌 Science に発表して提唱したので注目をあびた.吸入麻酔薬の存在で水の相がかわって氷のようになり,細胞の機能が障害されるとの理論である. その後,脂質との作用に重点が移って,現在では重要な意義のある理論とは考えられない. 再び脂質説:MACの確立が関係している.1970年ころから.Trudell, Halsey らが中心.相分離説.別項参照. 吸入麻酔薬のメカニズム 蛋白結合説:1960年代から.
たとえば,Featherstone という人達が,当時主張している.しかし,これも「吸入麻酔薬が蛋白分子と結合する」という事実を示しただけで,その先についてははっきりしない. さて,上記の総説の著者 Frank らは,“1980年代から有力になった”と述べているが,文献リストに出ているのは自分たちのものばかりである.本当に有力かどうかは,諏訪には判断できない. なお,上田一作氏も電縮水を介する蛋白分子への作用を提案しているが,この論文とは異なると理解している. [Frank らの主張とそれへの疑問] Frank らのイメージは,ふつうの「蛋白との結合」つまり神経伝達物質の作用やオピエイトのようなものを描いているようである.しかし,その主張は次のような点で納得がいかない.
光学活性を蛋白結合の根拠としているが,吸入麻酔薬での光学異性体の作用の差は2倍程度に止まる.一般の化学物質では,何十倍もの差があるの比較するのは妥当ではない. 吸入麻酔薬が脂質二重層に入って構造変化を起こす度合いは少なく,温度の1℃低下と同じ程度という.脂質説(相分離説)への反論としては説得力はあるが,蛋白説を支持する根拠にはならない. 蛋白結合の証拠として,nアルコールなどの鎖が長くなると突然作用がなくなることを挙げている.蛋白構造の割れ目に入れなくなるからと説明する.説得力はあるが,吸入麻酔薬とは違う物質である. ホタルのルシフェリンは吸入麻酔薬の作用メカニズムの有力モデルだが,純粋の蛋白であって脂質成分はない.しかし,この点は上田氏の説に説得力がある. [諏訪の意見] 麻酔のメカニズムは,所詮仮説である.科学的な根拠は薄弱でも,明確なイメージを与えるものに価値がある.Pauling にも,Trudellにもそれがあった.水和説や相分離説は明確なイメージを与えてくれた.しかし,現時点の蛋白説はイメージを与えない.蛋白のどういう構造にどうはまり込んで,どんな風に神経細胞の機能を障害するか・・,という提案がない.そうした面白い話しがないと,素人は関心を抱きようがない.
文献: 最後のものが,ここで説明している論文. Pauling L. A molecular theory of general anesthesia. Science 134:15-21. 1961. Trudell JR. A unititary theory of anesthesia based on lateral phase separations in nerve membranes. Anesthesiology 46:5-10. 1977. Franks NP, Lieb WR. Molecular and cellular mechanisms of general anaesthesia. Nature 367:607-613. 1994.
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諏訪邦夫
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