電子版麻酔学教科書

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  ICUのコンピュータ:シミュレーション教育 #5
投稿者  諏訪邦夫
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投稿日時  2001年02月11日 16時22分
ICUのコンピュータ:シミュレーション教育

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この文章は,雑誌“ICUとCCU”の特集の一部として,1992年末に発表された文章の短縮版である.

シミュレーション教育


要旨:
ICUでコンピュータを用いた“シミュレーション教育”を検討した.なぜシミュレーション教育が必要か,シミュレーションとコンピュータの関係を概観した.ついで,ICUのシミュレーション教育用プログラムの例として,「呼吸管理と血液ガスプログラム:WINICU 」を解説した.ICUにおける呼吸管理と血液ガスの関係のトレーニングを目的としたシミュレーションプログラムで,世界でも例の少ないものである.さらにこれを例として シミュレーション教育の問題点と解決への提案とを述べた.この種のプログラムは開発にエネルギーを要する.包括的総合的なものはむずかしい.むしろ,小さいテーマに限定して作成し,使用者の側が使いながら統合をはかる考え方と提出した.
本文


なぜシミュレーション教育か
ものを教える際に,“先回りして教えてしまうと,学生の身につかない”というのは,教育に携わるものの間ではよく言われ実感もする.学習者が自分で誤りを体験し,自分で考えて,本当の実力になる.

現代医療における“現場”とは
医療がプリミティブであった時代には,“現場での教育中心”でよかった.ベッドサイドの教育はそれだけのものはあった.しかし,現代教育では,“ベッドサイド教育”の意義は異なってきている.現代医療では,患者の顔色を眺め心音を聴取する代りに,ヘモグロビンを測定し,EKGやエコーで診断と治療する.学習者は,測定のプロセスには関与せず,イメージや数値に基づいて,論理を組み立て議論をたたかわせる.
頻度の問題
麻酔を業とする場合,「気管内挿管」は重要手順である.しかし,挿管の場面は手術1つに対して1回しかない.手術が長時間化し精密化すると,麻酔医は挿管のトレーニングのチャンスが減る.
深刻なのはCPR(心肺蘇生術)である.手術と麻酔管理が改良された今,手術室では心臓はほとんど止らない.当然,CPRを“手術の現場で”学ぶことは不可能である.従来のように手術室で何年か麻酔の修練をすればCPRも自然に身につくことはない.
それでも,CPRの知識と技術は必要である.いざという時は,迅速に応用できなければならない.
つまり,現場で発生する条件と,重要として要求される要件とがマッチしない.疾患や事象としては稀れだが発生した場合の結果が重大な場合や,発生すると経過が速くて対応に“反射的な即応性”が要求される事柄にあっては,修練は欠かせない.しかし,“現場の教育”は非現実的である.
シミュレーションは,こういうテーマにあって,教科書や書籍による系統的な知識と,実際の対応とのギャップを埋める役割を果たす.飛行機のシミュレーターを引用すれば,シミュレーターなら墜落を経験できるが,実機では墜落を経験できない.

コンピュータシミュレーション − 何故ゲームでつかうか
シミュレーションは,コンピュータによるシミュレーターの役割が大きい.理由は,コンピュータがシミュレーションに適した性質をもつ故である.コンピュータゲームを考えるとわかりやすい.各種の戦争ゲーム(三国志,戦国時代の国取りゲーム,海戦ゲームなど),開発もの(都市開発や会社運営ゲームなど),実行は倫理的に許されない種類の欲望をひそやかにみたすもの(いろいろなエッチなゲーム)など,実にいろいろある.医療に関係したものとして,手術をやらせるシミュレーションゲームまである(“Life and Death”というタイトルで市販されている).
ゲームにコンピュータを使うのに重要な点がある.複製が容易で廉価な点である.この点は非常に重要である.諸外国には,コンピュータをつないだ,力学的な仕掛けを動かす,飛行機のシミュレーターに近いようなものも存在する.手術室や麻酔の“実体シミュレーター”である.しかし,これは教育手段としては意義を持たない.費用がかかりすぎるからである.
開発に費用がかかるのは避けられないとしても,運営や複製にも費用がかかる装置は,一般的教育には使用できない.飛行機のシミュレーターは十億円以上もするが,それも機器だけで数百億円もする実機の代替えだから利用価値が生ずるのである.医学教育には使えない.

ICUのシミュレーション教育用プログラム − WINICU を例に
ICUにおける教育を狙ったものとしては,“呼吸管理学習プログラム:WINICU ”が唯一の例であろう4,5).まずこのプログラムを中心に考察していこう.
WINICUプログラムの基本
コンピュータ内に呼吸不全患者を発生し,その患者を対象に診断と治療を加えて,それが良好なら状態が改善してICUを退出し,逆に不良なら状態が悪化して死亡する.ゲームのルールとして“血液ガスを正常値に保つ”ことを要求している.血液ガスが正常値の場合に,患者の状態が一段階よくなる.この点は現場とは異なるゲームだけのルールである.

仕様と使用法
歴史と経過などに関しては,筆者の別の解説やプログラム付属の説明を参照してほしい.プログラム自体は,現在ではフリーソフトウェアで,使用もコピーも自由である.チバコーニング社も配付している.

シミュレーション教育の問題点と解決への提案

WINICUの問題点
WINICUの基本が一応完成したのは,1985年春である.以来,7年以上が経過している.その間に多数の手直しは繰り返しているが,シミュレーションの基本構造は変っていない.
この“基本構造は変っていない”点が,実は重大である.陳腐化である.7年間のICU管理法の進歩は著しい.患者の層もかわり,ICUの環境もかわってきている.パルスオキシメーターやカプノメーターのようなモニターや,PSVのような新しい人工呼吸も頻用されている.呼吸管理の基本の考え方そのものの変化も著しい.そうした変化に対応できていない.

シミュレーション教育プログラム開発の問題点
シミュレーション教育プログラム開発の問題点を指摘しよう.WINICUが7年間の歴史を持ちながら,いまだにこの領域で唯一のプログラムにとどまっている.
“要求が少ない”のが最大の理由である.開発には膨大な知識と時間とエネルギーが必要なのに,使用する側の要求が乏しいのである.
開発の条件も厳しい.作成を医師とプログラマーが分担するとして,医師側の仕事も多い.酸素解離曲線の式はプログラマーには書けない.医師が探すか書いてプログラマーに教えなくてならない.WINICUでは,医師自身がプログラム作成も担当しているが,そうした能力を同時に持つことはごく稀れで,一般には医師とプログラマーとの共同作業になる.しかし,日本では病院で働いているエンジニアは数が少ない.
ユーザーインターフェースも重要である.研究者の個人使用のソフトウェアと異なり,教育用シミュレーションプログラムでは,ユーザーインターフェースがよくないと使用不能である.
WINICUの場合,“プログラムを書く”点に限定すれば,基本構造の開発に要したエネルギーを1とすると,ユーザーインターフェースの改良に費やしたエネルギーはその10倍にもおよぶ.山下公平氏がユーザーインターフェースを大幅に改良したから現在の姿になっている.
資金の問題も無視できない.このテーマや類似テーマでは,科研費をいくら申請しても通らなかった.結局,他のソースからの研究費を流用したり,ポケットマネーに頼っている.

解決法と提案
ソフトウェアの開発,特に医学教育のソフトウェアの開発はWINICUでも見るように困難なものであるが,それに対する解決の道を考えておこう.
大規模なものを狙わない点が大切であろう.大規模なものは開発と時間とエネルギーがかかる.作成者の知らない領域に踏み込まねばならないので,その領域の勉強をするだけでも時間とエネルギーを要する.WINICUが成功した理由の一つは,筆者が血液ガスと呼吸管理に(当時のレベルで)精通していたからである.大規模なソフトウェアは,ソフトウェアを書くこと自体も大変なのは言うまでもない.
逆にいえば,小さいテーマに限定すれば,比較的開発しやすい.ICUのすべて,ICU患者の全体をシミュレーションするのではなくて,その中の一側面に限定するアプローチである.
おわりに
ソフトウェアが成功すれば,数多くの人が使用してくれる.複製が容易で廉価だからである.さいわいにして,WINICUはこの例に属しているようである.これだけ使われるというのは,作者として大変に嬉しく誇らしい.

参考文献


諏訪邦夫,菅井直介(編):麻酔の教育と安全(第9回日本臨床麻酔学会総会記録)
克誠堂,東京 1990.Pp.1-118

諏訪邦夫:シミュレーションと麻酔学 麻酔23:285-294.1974.

諏訪邦夫:吸入麻酔の箕囲嵯斑┓現. 克誠堂.東京.1986. Pp.1-168

諏訪邦夫:呼吸管理と血液ガス学習プログラム 呼吸 5:861-866.1986

山下公平,諏訪邦夫: 血液ガス学習プログラムの改良
麻酔・集中治療とテクノロジー 1991号:38-40.1991

蛇足:
WINICUそのものはこのディスクには載せませんでした.サイズが200K近くあるので,ここに載せると教科書としてはバランスが悪いのです.フリーソフトウェアですから,いろいろなルートで入手できます.私に請求してもけっこうです(その場合は,ディスクと返信用封筒を送って下さい).チバコーニング鰍ゥらも入手できます.


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諏訪邦夫

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