電子版麻酔学教科書

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  式の誤りにとまどった話:神経筋伝達の「安全域」 #12
投稿者  諏訪邦夫
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投稿日時  2001年02月10日 15時53分
式の誤りにとまどった話:神経筋伝達の「安全域」

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Paton WDM, Waud DR. The margin of safety of neuromuscular transmission. J Physiol 191:59-90. 1967.

筋弛緩薬の作用には,神経筋伝達の「安全域」(Margin of Safety )や受容体の「占拠率」という概念が登場して,この論文が引用される.概念は判りやすく,興味も引かれるが,少なくとも考え方は分子レベルで,技術の貧しかった時代に分子レベルの問題をどう解析したのかに興味を引かれて読んでみた.
ところが,まったく納得できない.書いてある計算法を使ってみると,うまく計算できない.そこで,同じ著者の別の論文にあたったところ,この有名な論文に重大な誤りをみつけた.その誤りを知らないと,読者の方々が私と同様に難儀するはずで,その点を強調しながら紹介する.

論文の要旨
まず論文の内容を,抄録のスタイルを借りて紹介する.


[方法]
ネコの脛骨筋などをクラーレ・ガラミンなどで一部麻痺させておいて,薬理学的に刺激して,麻痺のない筋肉と麻痺筋との収縮に必要な薬用量から安全域を定めた.刺激薬物を動脈内に注入するが,アセチルコリンは到達までに分解されて投与量が決定できないので,サクシニルコリン・デカメソニウムなどを刺激薬とした.
[結果]
刺激薬間で,安全域は差がなかった.
10秒に1回の神経刺激(単収縮刺激)で,最大収縮を起こす閾値刺激の状況で拮抗薬が受容体を占拠している比率(占拠率)は0.76,ほぼ完全なブロックの起こっている状況での占拠率は0.917であった.
この所見を,伝達障害の起こりやすい線維から起こりにくい線維というグループの幅で考えると,安全率は4.1〜12という数値が算出された.
刺激薬と拮抗薬の組み合わせを変えると,単純な競合阻害では説明できないが,これは作用時間が短い故に計算の前提となる平衡状態(定常状態)が成立しないのげ原因で,競合阻害自体を否定はしない.

小さいが重大な間違い
興味は,受容体の占拠率を何のパラメ−タ−からどう算出したかである.ところが,論文に載っている数式を使っても数値が計算できない.占拠率を計算する肝腎の数式が間違っていて,しかも2種類に間違っている.この長い長い論文の,長い長い「結果」(62〜82ページ)のはじめの部分である.
まず,64ページの第1パラグラフの5行目がこうなっている.
“In general, occupancy is equal to the dose ratio divided by the ( dose ratio -1), provided that ----”となっている.occupancy (p)は筋弛緩薬の占拠率で,dose ratio (DR)は,筋弛緩薬を使用して収縮させるのに必要な刺激薬の量と,筋弛緩薬を使用しないで同じだけ収縮させるのに必要な薬物の量の比(薬剤投与率)である.
文意をそのまま式に表現すると,
p=DR/(DRー1) 1)
これではおかしい.この式は,Y=1+1/(Xー1)と等価だからp=1に上から漸近する直角双曲線で,DRが1以上ではpは大きな値から1に近付く.ところがpはゼロと1の間の数値のはずだから,矛盾している.解釈の誤りかと,DRを逆数にとってみたりもしたが,解決できない.
さらに読むと66ページの表に別の式が出ている.“ Table 1. Fractional receptor occupancies obtained from ( Dr-1/DR)”となっている.つまり
p=DRー1/DR 2)
こんどはp=DR(つまりY=X)に下から近付く双曲線である.DR=1でp=0はいいが,DRが大きくなるとpも大きな値をとり,著者が例として挙げているDR=5を代入すると,p=24/5というとんでもない数になる.

Paton の他の論文から
Paton が単独で1961年に書いた論文が引用されており(文献1),そちらの論文では反応速度論から丁寧に誘導して,平衡状態として下の式が示されている.
p=(DRー1)/DR 3)
これなら明確で,想定と矛盾しない.この式は,DR=1でp=0で,DRの増加につれてp=1に向かって単調に増加する直角双曲線である.まったく占拠されていないp=0ではDR=1で,逆に全部占拠されたp=1では,DR→無限大である.
つまり,1967年の論文の2点は単純な間違いで,最初のは分母と分子の書き違い,後の表のは括弧の付け違いである.それは,1961年の論文を読めば確信できる.
Paton の名は,Katz やZaimis などと一緒に,学生時代に江橋(節郎)先生からいろいろと伺ったが,受容体占拠の定量的評価までは聴いた記憶がない.私が学生だったのは1950年代後半だから当然だが,あるいは忘れたのか.

論文の間違いと読者の態度
論文の間違いで,著者を責める気持ちはない.人間は過ちを犯す動物であり,間違いがあるのは不思議ではない.「だから鉛筆には消しゴムがついているのだ」ともいう.しかし,これほど大きな論文の誤りが,指摘されないまま論文の結果だけ有名なのが納得できない.ゴミの論文ではない.間違いに気付いてか気付かずにか,多数の生理学者や麻酔学者が読んで引用して,概念と数値の確立に協力してきた.
1967年の論文の2箇所の間違いは,著者の勘違いや印刷のあやまりだが,論文の重要なポイントである.肝腎の式が誤っていて,著者の数値を信用できるか.著者自身を含めて,今までにも誤りに気づいた人がいるなら,誤りを指摘して引用しないと,後世の読者が困る.念のために,その後2年分ほど同じ雑誌を調べたが,「訂正」はみつかりませんであった.ただ,当時の訂正は雑誌本体に印刷せず小さな紙切れの追加のこともあったようで,失われたのかもしれない.
私はこの領域では素人で,1967年の論文の式の誤りを指摘している文章をどなたかご存知なら是非教えて欲しい.ちなみに,矢島直先生は筋弛緩薬の教科書で正しい数式を記述しているが(文献2),そこでは答えの式だけ引用せずに,基礎から導いている.1967年の論文だけ引用していて占拠率の数値だけ記述している文献の例を挙げる(文献3,4)が,他にも多数みつかりた.矢島先生も,Waud 氏のお弟子さんの天木嘉清先生も,論文の誤りを記憶はしていなかった.

論文が数値的に正しいかは別問題
本題にもどって,Paton の二つの論文の与えている安全率は,たとえ数式が正しくとも数値まで正しいとは考えない.現代の眼からは疑問の多い仮定に基づいている.しかし,概念を提出し,その概念にそってその時点で使える技術で測定と解析を敢えて行なった価値はもちろん偉大である.正しい数値自体は,現代の技術で確認しなおす必要があるが,現時点では(1997年)では行われていないようである.

注: Anesthesia Antenna 第19号(1996年7月発行)に掲載したものに,少し手を入れてここに再掲します.

1. Paton WDM. A theory of drug action based on the rate of drug-receptor combination. Proc Roy. Soc. London. 154:21-69. 1961.
2. 矢島直:筋弛緩薬の臨床薬理学.釘宮・花岡編著.筋弛緩薬ーーその学理と臨床.真興交易出版部.
3. 上田直行他.神経筋接合部のモニタ−:何を意味するのか? LISA 3:418-424. 1996.
4. Feldman SA. The iceberg theory--fact or fiction? Implication for monitoring. In: Fukushima K, Ochiai R(Eds). Muscle Relaxants. Physiologic and Pharmacologic Aspects. Springer-Verlag, Tokyo, 1995. Pp 257-261.

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諏訪邦夫

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